前澤さんの

を真剣に考えてみた。
結論
そもそも”人間らしさ”をポジティブな面のみで捉えているところが違う。妬み、嫉み、承認欲求のための暴力すらも”人間らしさ”に含むのではないか。
”人間らしさ”をそのように定義すると、お金をなくすことが人間らしさを取り戻すということにはならない。
お金の存在はそのままでも、お金がないことの不幸をなくすことは可能ではないか。
ぼくの考え
お金をなくして”本来の人間らしさを取り戻すのです(略)残るものは、今までの人間関係や信用です”と前澤さんは言う。
①お金→信用に代えるなら・・・
もし、信用が代わりになったとしても、社会活動を維持するためには、その信用を数値化して、信用を測る尺度が必要になります。
お金は現代において、そうなっていない場合もあるけど、概ねは、信用を測る尺度になっています。
その尺度が、中国で始まっているといわれる芝麻信用などになったとしても、それを持つものと持たざるもので格差が生じます。
その尺度を持つに至った理由や、それをどのように膨らませるかについて、お金と芝麻信用などでは全く別物で、後者の方が公正公平だというのは、それはそれでお金のある世界とは別世界になるかもしれませんが、その議論はまた別の話なので傍においておきます。
そもそもお金が不幸を生むのは、お金の多寡によって格差があるからです。
格差があるとなぜ不幸が生まれるのか。
それは、他人に嫉妬し、他人を羨み、他人より評価されたいというのも人間の本質だからです。
他人より評価されたいという欲求を満たすために、ルールから逸脱した方法を使ってでもしてしまうというのは、ある意味生存競争を勝ち抜く、種としての本質なのです。
なので、”お金をなくすこと”は手段で、”人間らしさを取り戻すこと”が目的として、その目的の意味が妬み、嫉みがなく、他人の評価を全く気にしない世の中、ということであれば、それは”人間らしい”とは言えないとぼくは思います。
つまり、”人間らしさを取り戻すこと”という目的自体に違和感があります。
“人間らしさ”がお金の存在によって変化しているとはぼくには思えません。
②信用が残るとして、お金→信用に変えない場合・・・
上のロジックは信用を数値化する必要があることを前提しましたが、そうではなく、数値化、尺度自体を取っ払ったらどうなるのか。
前澤さんはこちらを本線として言われているかもしれません。
お金の代わりとなるものがない世界はどうか、ということ。
信用のみが残るとして、それを数値化しない世界はどうなるのか。
この場合、希少性のあるものについて、みんなが欲しがり、供給が極端に少ないもの、例えば貴金属や高級食品などの保有をどう認めるのかという問題が発生します。
供給を増やせばいいとか、お金がなくなればそういうものに価値があるということがなくなる、とよくある質問にありましたが、高価だから需要大なものと、物理的に希少だから相対的に需要大なものがあり、後者はお金がない世界でもなくなりません。
現在では、その希少性に見合う価値=お金を提供することで解決しています。
それがなく、さらに力による奪い合いも認めない場合、この問い対する答えはないと思います。
つまり、物々交換から不変の等価値交換ができるようになった貨幣という人類の発明がその解であって、それを放棄するのは、ある意味人類の進化の否定であり、それをバージョンアップする解がなければ、お金の代替はできません。
“民主主義は最低の政治制度だが、それに勝る制度はない”のに似ています(少なくとも現在では)
希少性のあるものはシェアすればいい、というのもそれを独占したいという人間の欲求の否定であって、①の結論と同じです。
お金が原因の不幸をなくすこと、が最終でいいと思う
前澤さんの思いの本質は、世の中の不幸をなくしたい、ということだと思います。夢が世界平和なので。
だから、
世の中の不幸をなくしたい
→お金が原因の不幸が多すぎる
→お金が原因の不幸をなくしたい
でいいんじゃないかと思います。
その次に
→お金が原因だからお金をなくす
をすると上に書いたように色々無理がある。
”お金が原因の不幸”は、事業失敗、離婚、連帯保証・・・など世の中にあふれています。
それを一つ解決するだけでもすごい貢献であって、世界平和に近づく一歩だと、ぼくは思います。
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